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悟り-自由意志はあるのか

9月17日
読了時間: 4分

更新日:10月10日

-悟りとはなにか

-悟りに至るにはどうすればいいのか


よく耳にする言葉です。


ここで書く内容は、失礼な意味ではなく、大多数の方々には理解して頂けないかもしれません。


そして同時に、わたしの生きる指針に於いて核心部となる内容でもあります。


また、個別のテーマ(人間関係、不登校など)とは別の次元のテーマを扱っていること、ご理解いただきたく思います。


わたしたちは日常に起こる、望まぬ出来事、

-こうあるべきではない

-こうあってほしくない

と葛藤する事象に煩悶し、悩み苦しみます。


自身の選択した行動、投げかけてしまった言葉など、強く後悔し続けていることもあるかと思います。


然し、ここで問いたいのですが

「その選択は、本当にあなたが選んだ行為なのでしょうか」


もし、

「あなたが選んだように見えて、本当は選ばされている」

と言われたら、どう感じるでしょうか。


目の前にリンゴが置かれています。ふと、その「リンゴを食べたい」という気持ちが湧きました。それは本当に、あなたの意志で、あなたの選択で湧いた感情でしょうか。わたしは、そうではない、と捉えています。


お伝えしてしまうと

【あらゆる意志や感情、選択や行為はみずから選択・行為したものではなく、すべてはただ、起きている】と捉えています。


つまりは「ありのまま」存在するこの世界、現象、が真理であり、そこに人間側からの意志、選択は関与していない、ということです。


わたしたちは川に流れ、流される一片の落ち葉と同じ。

落ち葉自身に「右へ流れたい」「急流には流れたくない」といった意志はありません。


然し、わたしたち人間は

・そうした意志をもち

・自分たちで、自力で道を選択できる

と信じ込んでいます。


そこに、苦しみの根っこがあります。


究極、わたしたちは川を流される落ち葉であると同時に、「わたしは落ち葉だ」という認識自体、本来は無いものなのです。


何を言っているのか、と混乱させてしまいそうですが、それは仏教やインドの非二元、そしてわたしは、あらゆる宗教の示す根源的なものだと捉えています。


すべてはただ在り、ただ起こっている。

あらゆる出来事は、想像にも及ばない数、そして過去からの「縁」により起こっています。「縁起」です。そこにわたしたちからの意志や操作、コントロールは関係ありません。


そう悟ったとき、ふと、こころが軽くなる瞬間は無いでしょうか。

「わたしがやらねば」「努力して勝ち取らねば」

「わたしの責任でこうなってしまった」


そのような強迫観念、自責の念から、幾分か解放される感覚を覚えないでしょうか。

あなたが苦しみ、後悔している現象は、無限の縁のなか、自然の流れに於いて起こったのです。


あなたが「起こした」のではありません。


ここでよく言われるのが

「それでは何でも好き放題にして良いのか」

「戦争や事件などはどのように捉えればよいのか」

という事柄です。


それらも、ただ起きています。


正しいや間違い、善と悪、どうすべきか・・そうした議論は、ここでは必要ありません。


誤解を招かぬようお伝えしたいのですが、倫理が必要ない、と捉えている訳ではありません。


人間社会のなか、倫理は必要です。

ただ、それでさえもただ起こる、ということです。


大いなる流れのなか、物事はただ起こります。

それを〇か×かと、人間の脳みそで考えつくしても、本当の答えはわかりません。


真理は人智を越えたところに在ります。

それは神、宇宙・・なんと名付けられようとも、それすらも人智のなかでのことです。


-頑張りの限りを尽くし、もうどうにもならないとき

-苦しみの果てまでたどり着いてしまったとき


そのときにこそ、自力の限界を知り

大いなる存在、流れに身をゆだねる


それが「他力のこころ」であり

インド思想で言うと「明け渡し」です。


自我、自力の限界を悟り

人間の傲慢さを知り

大いなる存在に自身を明け渡す


それでも、日々のなかでは悩み苦しみは尽きません。それでも良いのです。それすらも、すべてはただ、起こるのです。


わたしたちはただその流れを

ただ起こる事象を、観察し続ける

それしかできることはありません


必要なことは、必要なときに、起こります。

言葉も、行為も、出来事も


いつ、何を、どのようにすべきかは

委ね、明け渡してしまって大丈夫です


せめて今日という一日だけでも

「自分が頑張らねば、選択せねばならない」

という考えを手放しても、よいのではないでしょうか

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