悟り-自由意志はあるのか
更新日:10月10日
-悟りとはなにか
-悟りに至るにはどうすればいいのか
よく耳にする言葉です。
ここで書く内容は、失礼な意味ではなく、大多数の方々には理解して頂けないかもしれません。
そして同時に、わたしの生きる指針に於いて核心部となる内容でもあります。
また、個別のテーマ(人間関係、不登校など)とは別の次元のテーマを扱っていること、ご理解いただきたく思います。
わたしたちは日常に起こる、望まぬ出来事、
-こうあるべきではない
-こうあってほしくない
と葛藤する事象に煩悶し、悩み苦しみます。
自身の選択した行動、投げかけてしまった言葉など、強く後悔し続けていることもあるかと思います。
然し、ここで問いたいのですが
「その選択は、本当にあなたが選んだ行為なのでしょうか」
もし、
「あなたが選んだように見えて、本当は選ばされている」
と言われたら、どう感じるでしょうか。
目の前にリンゴが置かれています。ふと、その「リンゴを食べたい」という気持ちが湧きました。それは本当に、あなたの意志で、あなたの選択で湧いた感情でしょうか。わたしは、そうではない、と捉えています。
お伝えしてしまうと
【あらゆる意志や感情、選択や行為はみずから選択・行為したものではなく、すべてはただ、起きている】と捉えています。
つまりは「ありのまま」存在するこの世界、現象、が真理であり、そこに人間側からの意志、選択は関与していない、ということです。
わたしたちは川に流れ、流される一片の落ち葉と同じ。
落ち葉自身に「右へ流れたい」「急流には流れたくない」といった意志はありません。
然し、わたしたち人間は
・そうした意志をもち
・自分たちで、自力で道を選択できる
と信じ込んでいます。
そこに、苦しみの根っこがあります。
究極、わたしたちは川を流される落ち葉であると同時に、「わたしは落ち葉だ」という認識自体、本来は無いものなのです。
何を言っているのか、と混乱させてしまいそうですが、それは仏教やインドの非二元、そしてわたしは、あらゆる宗教の示す根源的なものだと捉えています。
すべてはただ在り、ただ起こっている。
あらゆる出来事は、想像にも及ばない数、そして過去からの「縁」により起こっています。「縁起」です。そこにわたしたちからの意志や操作、コントロールは関係ありません。
そう悟ったとき、ふと、こころが軽くなる瞬間は無いでしょうか。
「わたしがやらねば」「努力して勝ち取らねば」
「わたしの責任でこうなってしまった」
そのような強迫観念、自責の念から、幾分か解放される感覚を覚えないでしょうか。
あなたが苦しみ、後悔している現象は、無限の縁のなか、自然の流れに於いて起こったのです。
あなたが「起こした」のではありません。
ここでよく言われるのが
「それでは何でも好き放題にして良いのか」
「戦争や事件などはどのように捉えればよいのか」
という事柄です。
それらも、ただ起きています。
正しいや間違い、善と悪、どうすべきか・・そうした議論は、ここでは必要ありません。
誤解を招かぬようお伝えしたいのですが、倫理が必要ない、と捉えている訳ではありません。
人間社会のなか、倫理は必要です。
ただ、それでさえもただ起こる、ということです。
大いなる流れのなか、物事はただ起こります。
それを〇か×かと、人間の脳みそで考えつくしても、本当の答えはわかりません。
真理は人智を越えたところに在ります。
それは神、宇宙・・なんと名付けられようとも、それすらも人智のなかでのことです。
-頑張りの限りを尽くし、もうどうにもならないとき
-苦しみの果てまでたどり着いてしまったとき
そのときにこそ、自力の限界を知り
大いなる存在、流れに身をゆだねる
それが「他力のこころ」であり
インド思想で言うと「明け渡し」です。
自我、自力の限界を悟り
人間の傲慢さを知り
大いなる存在に自身を明け渡す
それでも、日々のなかでは悩み苦しみは尽きません。それでも良いのです。それすらも、すべてはただ、起こるのです。
わたしたちはただその流れを
ただ起こる事象を、観察し続ける
それしかできることはありません
必要なことは、必要なときに、起こります。
言葉も、行為も、出来事も
いつ、何を、どのようにすべきかは
委ね、明け渡してしまって大丈夫です
せめて今日という一日だけでも
「自分が頑張らねば、選択せねばならない」
という考えを手放しても、よいのではないでしょうか


