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静寂の中の言葉たち
-こころのしくみと、生きづらさをほどくちいさなエッセイ-
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「不安」の構造
不安は人間関係や仕事、子どもの問題といった目の前の出来事から生まれているように見えますが、その根底には「存在の不安」があります。存在の不安とは、「私は愛されているのか」「ここにいてよいのか」「価値があるのか」といった、自分自身の存在に関わる揺れのことです。その多くは、幼少期の親との関係性や過去に受けたこころの傷によって形成されます。そのため、問題が解決しても新たな不安が現れ続けることがあります。不安と向き合うためには、自分を否定せず、身体を落ち着かせ、不安を言葉にすることが大切です。そして、安全で信頼できる他者との関係のなかで新たな経験を積み重ねることで、「揺れても大丈夫」という感覚が育まれていきます。不安を消そうとするのではなく、不安とともに生きながら本来の自分を取り戻していくことが大切なのです。
10月12日


「生きる」のではなく、『生かされている』
人生はなぜ、こうも苦しみに満ちているのでしょう。 幼い頃には想像もしなかったような困難を、いつの間にか抱えてしまうことがあります。 抱えざるを得なかった試練、苦境には深い意味があり、その先には幸福が待っている- そう頭の中では理解しようとしても、納得をもって生きていくことは簡単ではありません。 もちろん、明るい方を観ようとすることは大切です。 しかし、“明”を観ようとすればするほど、対極となる“暗”に意識が向いてしまうこころの性質があります。強い光を照らすほど、影は色濃く映し出されるように。 しかしふと -なぜ人生がこうも苦しいのか -こんなはずがない -“どうすれば”幸福を得られるのか と煩悶するとき、「わたし」が無意識に、ある前提に立っていることに気づくことがあります。 「わたしが人生をコントロールしている」 ・わたしが人生の主導権を握っている ・わたしは人生をコントロールできる(はずだ) 人生という荒波を航海している、舵取り主のような感覚です。 しかし、わたしたちは本当に人生の舵取りができているのでしょうか。
10月4日


罪と罰-ひとは何故、罪を犯してしまうのか
ここでは繊細なテーマを扱います。 誤解を招かぬようにお伝えしたいのですが、ここでの内容は決して ・罪を犯したひとを擁護する意図ではなく ・被害に合われた方々を軽視する意図もなきこと ご理解頂けたらと思います。 個人的な印象ではありますが、罪を犯してしまったひとに対して、この社会では -「罪に対してどのような罰が課されるか」に焦点が当てられ -「なぜ、罪を犯してしまったのか」「原因に対して、どう対処すれば再犯が防げるのか」 については、あまり焦点が当てられていないように感じています。 勿論、「罪に対する責任、そして罰」という点は大切です。 しかしそれと併せ、「如何にして罪が罪を生む構造を断つか」という観点も大切だと感じます。 “行為の責任”と、“人がそこへと至るまでの背景”は別の次元で扱う必要があり、「行為」は外側に現れた事実、「背景」はそのひとのこころの内側に存在します。 つまり、こころのなかにある根っこへとアプローチしなければ、罪が罪を生んでしまう悪循環を断つことは出来ません。 人は誰しも、できることなら穏やかに生きたい
10月1日


『諦める』とは、「明らかにする」こと
「諦める」という言葉。 仏教で「諦」は、サンスクリット語「Satya-真理」を訳した語で、「諦める」とは【真理を明らかに見る】という行為でした。 現代に於いては、断念、ギブアップすること、のような結末の感情だけがフォーカスされ、ネガティブな意味合いを持つことが多いのではないでしょうか。 本来、「諦める」という言葉は -よく観て -道理を知り -執着を手放す というプロセスを意味したものだったのです。 わたしたちは日常に於いて ・ありのままの現実を直視できず ・「こんなはずではない」と抵抗し ・改善や解決策を探すことに奔走します -パートナーが家事育児を手伝ってくれない -子供が学校へ登校してくれない -会社からの評価が不当で、不満がある 多くの「こうあるべきではない」に対して葛藤し、不安を抱え、何とかしようともがき苦しみます。 然し、パートナーも、子供も、外の世界も「そうなる必要があって、現象として立ち現れています」。この点は、ただ言葉で説明されてもすっきりしないかもしれません。それは、わたしたちの思考ではわかることの
9月27日


「役割」ではなく「存在」として生きる
あなたは人生を「役割」に生きていませんか。 -子供が自分を必要としなくなると不安になる -パートナーが自分以外の世界を持つと落ち着かない -仕事で役割が変わると自分の存在が揺らぐ 子供が成長し、巣立っていく過程や、パートナーとの関係性など、親密な他者との関に於いては、そのような心理状態が生まれることがよくあり、対象となる他者が自分を生き始めると、自分の価値が揺らぎ、からっぽになるような感覚を覚えることがあります。 それは ・自分の価値を「役割」と紐づけ ・自他の世界が分離できず(*) ・自分の価値を外側に置いてしまっている状態 かもしれません。 *ここでは心理学的な”自他の境界”の話をしています それ自体はけして悪いことではなく、幼い頃など、そうしなければ生きてこられなかった、という背景があるものと思います。親や社会から役割を課され、それがあなたの生きる価値だとみなされてしまった。あなたのその特性は生存本能として、身に着けざるを得なかったものです。 わたしの場合、父親にそうした気質があり -一家の主として尊重すること -自分を頼りにすること...
9月22日


こころの成り立ち-傷と心の反応
わたしたちは日常のなか、様々な出来事に遭遇します。 同じ出来事を経験しても、人はそれぞれにまったく異なったこころの体験をします。 ある固有の経験をとおして ・Aさんは楽しい、嬉しいと感じ ・Bさんには苦痛で悲しいと感じる そのようなことが起きます。 それは、こころのフィルターがひとりひとりに異なっているから。 そしてそのフィルターが形成された背景には、幼い頃の境遇、親や社会からの価値観などが複雑に絡み合っていることが往々にしてあります。 -なぜ、自分のこころはこのように反応してしまうのか -こころの傷がどのように形成されたか -変わりたいけど、変われない そうしたとき、自身のこころが、どのような性質(フィルター)を持っているのかを理解することで、ほんの少しずつでも、傷を癒し、反応の仕方が変容、変わっていきます。 ひとつの事柄や心理的な要素を取っても、さまざまな受け取り方があるという一例として、一緒に辿ってみたいと思います。 事象:パートナーが自宅のソファに座ってうつむいて座っている それを観たAさんのこころには..
9月20日


悟り-自由意志はあるのか
-悟りとはなにか -悟りに至るにはどうすればいいのか よく耳にする言葉です。 ここで書く内容は、失礼な意味ではなく、大多数の方々には理解して頂けないかもしれません。 そして同時に、わたしの生きる指針に於いて核心部となる内容でもあります。 また、個別のテーマ(人間関係、不登校など)とは別の次元のテーマを扱っていること、ご理解いただきたく思います。 わたしたちは日常に起こる、望まぬ出来事、 -こうあるべきではない -こうあってほしくない と葛藤する事象に煩悶し、悩み苦しみます。 自身の選択した行動、投げかけてしまった言葉など、強く後悔し続けていることもあるかと思います。 然し、ここで問いたいのですが 「その選択は、本当にあなたが選んだ行為なのでしょうか」 もし、 「あなたが選んだように見えて、本当は選ばされている」 と言われたら、どう感じるでしょうか。 目の前にリンゴが置かれています。ふと、その「リンゴを食べたい」という気持ちが湧きました。それは本当に、あなたの意志で、あなたの選択で湧いた感情でしょうか。わたしは、そうではない、と捉えています。 お伝
9月17日


愛着障害
わたしは愛着障害を抱えながら生きています。 愛着障害とは、幼少期の養育環境によって「安心感の基盤」が揺らぎ、人間関係で強い不安や恐れが生じやすくなる状態を指します。 傷の根っこは、幼い頃の両親との関係性にあると思われ、安心と不安が極端に混在する家庭環境のなかで生まれました。 環境の変化やストレスが重なったとき、思いがけず発症することがあり、そのときは青年期に苦しんだ強迫神経症のよう、他者にとってはなんでもない事柄が、自身にとってはとてつもない不安を感じさせる事柄に受け取られてしまいます。 不安に駆られたとき、掴まれてしまったとき、感情的に行動してしまうのではなく、外の現象、現実からは距離を置き、できるだけ冷静に、客観的に事実を見極めようと努めます。 大抵の場合、外の現象や事実は自分が思っているほど大げさなことではなく、大げさに感じさせているのは、自身のこころのフィルター、更には根っこにある傷がそうさせているとわかります。 書いてしまうとシンプルに思えますが、当人にとっては、ある意味地獄です。 不安につかまれたときの苦しさは本当に辛い。...
9月10日


ゆだねる
このしばらく、九州方面から私のホームページへアクセスしてくださる方々が増えています。理由は、きっと皆さまの置かれている状況と関係しているのだろうと思います。 自分ではどうすることもできない出来事に巻き込まれたとき、人は深い不安や恐怖に襲われます。日々を生きるだけでも精一杯なのに、さらに大きな負荷が重なる。その矛盾ややり場のない思いに、胸が締めつけられることもあると思います。 生きることは、いつも矛盾を孕んでいます。 正しさや誠実さだけでは乗り越えられない瞬間に、誰しもがぶつかります。 泣きたいとき。 誰かに話を聴いてほしいとき。 誰かの声を求めるとき。 わたしたちは、自分ひとりでは生きていけません。誰かに頼り、ときに支え合いながら生きることこそ、本当の意味での「自立」なのだと私は思っています。 いま、苦しみのさなかにある方へ。 生きているだけで、もう十分です。 努力や頑張りができなくても、何者かになれなくても。 あなたは、生きているだけで祝福されるに値する存在です。苦しみは、わたしたちが望むときに去ってはくれません。 ただ、嵐が過ぎるのを待つ時間
8月10日


子どもの不登校と、わたしのこころ
子どもが学校へ行けないとき、わたしたちは 自分を、そして子どもを責めてしまうときがあります。 この文章を読んで、あなたのこころが すこしでも軽くなってもらえたら、わたしは幸せです。 これまでわたしは、「不登校」という言葉を できるだけ使いたくないと感じてきました。 それはどこか -社会的な問題 -重たいもの -(無意識に) 子供たちが責められる構図 そうしたものを感じ取ってしまうためです。 「不登校=良くないこと→改善しなくてはならない」 という形では、捉えたくないと感じています。 わたしの息子は長い間、学校へ行けていません。 その子、その子の特性もあると思いますが ほかの兄弟も学校へ足が向かなくなってしまいました。 彼らが安心できる家庭を築けてきたかと問われたとき わたしは胸を張って、そうだと言うことはできません。 (誤解なさらないでほしいのですが、家庭は安心の土台にはなり得ますが 不登校がその原因だと意図するものではありません) わたしたちは、どうしても表面的な事象に囚われ 判断し、外の世界を変えようとしてしまいます。 -学校に行けない子供た
7月23日


叶わなかった願い
もしあなたにも、叶わなかった願いがあるとすれば その痛みは、あなたが誰かを深く愛した証なのかもしれません。 わたしたちは、人生を経るに従い さまざまな出来事を経験していきます。 なにもわからずにこの地に生まれ落ち 家族というちいさな世界のなかで育ち この世界への期待、そして夢を思い描いたり 気がつくと、自分のこころに なにかオモリのようなものが在ることに気が付く 初めはその扱いもわからず ただただそれを抱えながら、日々を生きていきます でも、いつの間にか、オモリの存在は大きくなり それに結びつく悲しみや孤独、虚しさに出くわしていく こころから好きなのに、関係をうまく築けない ただ大切にしたいだけなのに、関係がこじれてしまう 夫婦になって、様々な出来事-出産や子育て、仕事-を共に経てきた。でもどこからか、生き方、価値観のズレを感じ始めてきた。ズレは日を追うごとに大きくなり、もう駄目かもしれない。 わたしを育ててくれた両親。でも、わたしは彼らを大切に思う一方で、辛く悲しい思いをしてきた。将来、彼らが自身で生きることが困難な日を迎えたとき、わたしは
7月11日


「かれは、わたしの父でした」
これは、わたしの個人的な人生の話です。 何かを善悪で測る意図はありません。 ご理解頂けたらと思います。 わたしの父は、独裁的なひとでした。 自分が全てで、他者はそこにはおらず 暴力的な言葉や態度で、家族を傷つけ それにより自分の傷を癒そうとする そのようなひとでした わたしの幼いころ 家の中は荒れ、暴言や物が投げ壊され 両親の夫婦喧嘩は日常でした 幼い、若い時分の私には 自分を顧み、ケアをする余裕は無く 両親の関係を仲裁しようとしたり ただ怯え、家族が壊れないように 母が消えてしまわないようにと びくびくしていたように思います ある程度大きくなった私は 自身のなかに、両親に対する とめどない怒りを見出すようになります 死期の近付く父に向かって 電話越しに「ひとりで死ねばいい」 と言葉を投げつけたこともありました 父は、最期まで 過去の過ちや孤独、虚しさ それらを受け入れることができず 必死に逃げ続け、孤独のなかに死を迎えます 父の死を経て ある時期より両親への怒りは 不思議とちいさなものになっていきました もうどうでもいい そんな感覚でもありまし
4月4日


わたしを見失うとき (自己同一化)
わたしたちは、自分自身が頼りないとき 何か外の大きな存在に、自分を重ね合わせ 同じ存在だと見なし、思い込むことで 自分の弱さ、ちいささから逃避することがあります。 それは親を始めとし 恋人やパートナーといった他者 会社や、思想を同じくする組織・団体など いずれの場合であっても 自分よりも大きく、確かで強い 存在の確実性を得られる「何か」です 多くの場合、自分自身が 「同一化」を行っていることには気付けておらず、これこそがわたし、と信じ込んでいます 信じていないと、自分自身が 自分の世界が崩れ落ちてしまうから。 いっとき、何かに頼り 信じきることも、必要であるかもしれません。 そのさきで、信じていた物事が ーまぼろしであったと ーだれかの個人的な思惑、意図に過ぎなかったと ー自分の幸福には、たどり着けない道であったと どこかで気がつき、傷つき 挫折のような体験を経て初めて 「何かをまちがえていた」と気づくかもしれません この世界‥いえ、人間社会のなかでは ー世界的な平和と人権の権威的な組織に於いて ー国家的に著名な芸能人、組織のなかで 信じられない
3月28日


ありのまま からの逃避
自分を変える努力 退屈を紛らわせる遊び このままでいいのかという葛藤 あらゆる行為を、止めてみてください それらはすべて、 「ありのままの私」から遠ざかる行為です きびしい言葉ですが ありのままの私からの、逃避行為です 多くの人は、生まれた瞬間より 社会や親、文化的なものからの影響を浴び続け それに準じた価値観や生き方を形成します 刷り込まれた正義や正しさ、理想と ありのままの私、の間にあるギャップを 埋めなくてはいけない、という焦り、不安感から なんらかの行為が生まれます 行為は身体的、物理的なものから 心理的なものまでを含みます 不安や孤独感から葛藤したり このままで良いのかという迷い あらゆる精神的な行為をも、止めてください いわゆる充実感、まぎらわせを 外の世界へと求める行為を、止めてください そのとき、あなたは あなたが恐怖してきたものの中へと 飛び込むことになります ー将来に対する不安 ーひとり在ることの孤独 ー生きることの虚しさ そのなかへ飛び込んで ただ、じっとしていてください わきあがる感情や考えには抵抗せず ただただ、認識し、
3月28日


縁起
「無駄なものは、なにひとつとして無い」 わたしが仏教とのご縁を授かった頃、頂いた言葉です。 いまの苦労、困っていること 子供や夫婦関係のトラブル 会社や仕事での行き詰まり すべては、起こるべくして、起こっています。 -そんなはずはない。 こんなに苦しく、矛盾したことが 起きていいはずがない- 仰る通りだと思います。 この世界は、矛盾や不条理にあふれています。 でも、それでも 無駄なものは、なにひとつとしてありません 来たるべき時がくれば、落ち葉は落ち 微生物がそれを分解し、土をつくり そしてまた、樹の赤児を育てます そこには驚くほどに、神秘的なほど 無駄なものがありません。 私たちもそれにおなじ、自然の一部です。 起こるべきとき、縁は起こります。 人との出会いはもちろん、あらゆる出来事にも。 いまは良縁とは思えなくても いつか、この出来事が実を結び、 新しい世界や夢、いま願うことに つながることもあります。 もちろん、たしかなものは なにひとつとしてありません。 そこに理屈や、科学的な見地は必要ありません。 というより、差し挟む余地はありませ
3月1日


ありのまま -自然法爾-
「ありのまま」 この言葉をテーマに、カウンセラーの活動を始めました。 ありふれた言葉ではありますが、いま思うと、私自身が苦しみを意識し始めた 10代のころから、人生の中心となる言葉であったと思います。 ありのまま、とはどのようなものでしょうか。 さまざまな本やメディアで謳われる言葉ですが、 どんなに意識しても、頑張っても、ありのままでいることができず、 苦しみが増してしまう方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。 “よし、ありのままでいるぞ!” イメージはし易いですが、力んでしまった時点で、 ありのままでいることはできません。 “これがありのままの私。あれが好きで、これは嫌いで・・こういう人なんだ” もちろん、多くの方が自分のことを知っていて、 自分のことについて説明ができます。 でも、その内容は、本当に「ありのままのあなた」でしょうか。 くどい謎解きのようではありますが、大切なことなのです。 私たちは知らない間に、それはこの世界に生まれ落ちた瞬間から、 両親や社会-学校教育や本、メディア、インターネット-による 膨大な情報 (知識、文化的背景
2月17日
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