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「生きる」のではなく、『生かされている』

10月4日
読了時間: 3分

人生はなぜ、こうも苦しみに満ちているのでしょう。

幼い頃には想像もしなかったような困難を、いつの間にか抱えてしまうことがあります。

 

抱えざるを得なかった試練、苦境には深い意味があり、その先には幸福が待っている-

そう頭の中では理解しようとしても、納得をもって生きていくことは簡単ではありません。

 

もちろん、明るい方を観ようとすることは大切です。

しかし、“明”を観ようとすればするほど、対極となる“暗”に意識が向いてしまうこころの性質があります。強い光を照らすほど、影は色濃く映し出されるように。

 

しかしふと

-なぜ人生がこうも苦しいのか

-こんなはずがない

-“どうすれば”幸福を得られるのか

と煩悶するとき、「わたし」が無意識に、ある前提に立っていることに気づくことがあります。

 


「わたしが人生をコントロールしている」

 

・わたしが人生の主導権を握っている

・わたしは人生をコントロールできる(はずだ)

 

人生という荒波を航海している、舵取り主のような感覚です。

 

しかし、わたしたちは本当に人生の舵取りができているのでしょうか。

 

舵を取ろうとすればするほどに、苦しみは増し、物事は混乱していく-そんな経験をされたことはないでしょうか。

 

度重なる、どうにもならない不幸を経験したとき。

努力の限界を迎え、手放さざるを得ない心境にいたるとき。

 

それは人生に於ける転換点に、あなたは立っているのかもしれません。

 


自力から、他力への転換

 

「わたしの頑張りで」

「わたしの意志で」

「わたしの思うとおりに」

 

事を成そうとしてきた、できると信じてきた世界から

「すべては与えられる」世界への転換です。

 

与えられるもの-それは努力も、意志も、感情も、行為も。

わたしたちが“自分で生み出している”と思っていたもののすべてです。

 

「感謝すべき」ではありません。

もし感謝の念が湧いてきたのなら、それさえも与えられたものなのです。

 

その前提に立ったとき、わたしたちが「しなければならないこと」は何も残らなくなります。必要なことは、必要なそのときに、自然と与えられるからです。



すべては、大いなる流れの中に


-なぜこんな苦難が与えられているのか理解できない

-努力や頑張りをしなければ、堕落してしまうのではないか

 

理解できるのは「今」ではないのかもしれません。

努力や頑張りでさえも、必要であれば、そのときに与えられます。

 

わたしたち人間は頭で理解し、わかろう、わかろうとします。

 

しかし「真理-ありのまま」は、言葉に書き換え、頭で理解しようとすると、どうしても本質から離れて行ってしまいます。

 

言葉も理解も、人間側に属するものだからです。

 

すべては、大いなる存在、流れのなかに在ります。

御心のままに、導かれるままに。

 


『生かされている』という視点

 

その流れに身を委ねたとき、わたしたちは「生きている」のではなく

『生かされている』という視点が生まれます。

 

それでも、わたしたち人間は悩み、苦しんでしまう。

 

それでよいのです。

その苦しみさえも、与えられています。

 

無駄なものは、なにひとつとしてありません。

 

せめて今日の一日くらいは、すべてを手放し

気持ちを楽にして過ごしてもよいのではないでしょうか


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