「生きる」のではなく、『生かされている』
人生はなぜ、こうも苦しみに満ちているのでしょう。
幼い頃には想像もしなかったような困難を、いつの間にか抱えてしまうことがあります。
抱えざるを得なかった試練、苦境には深い意味があり、その先には幸福が待っている-
そう頭の中では理解しようとしても、納得をもって生きていくことは簡単ではありません。
もちろん、明るい方を観ようとすることは大切です。
しかし、“明”を観ようとすればするほど、対極となる“暗”に意識が向いてしまうこころの性質があります。強い光を照らすほど、影は色濃く映し出されるように。
しかしふと
-なぜ人生がこうも苦しいのか
-こんなはずがない
-“どうすれば”幸福を得られるのか
と煩悶するとき、「わたし」が無意識に、ある前提に立っていることに気づくことがあります。
「わたしが人生をコントロールしている」
・わたしが人生の主導権を握っている
・わたしは人生をコントロールできる(はずだ)
人生という荒波を航海している、舵取り主のような感覚です。
しかし、わたしたちは本当に人生の舵取りができているのでしょうか。
舵を取ろうとすればするほどに、苦しみは増し、物事は混乱していく-そんな経験をされたことはないでしょうか。
度重なる、どうにもならない不幸を経験したとき。
努力の限界を迎え、手放さざるを得ない心境にいたるとき。
それは人生に於ける転換点に、あなたは立っているのかもしれません。
自力から、他力への転換
「わたしの頑張りで」
「わたしの意志で」
「わたしの思うとおりに」
事を成そうとしてきた、できると信じてきた世界から
「すべては与えられる」世界への転換です。
与えられるもの-それは努力も、意志も、感情も、行為も。
わたしたちが“自分で生み出している”と思っていたもののすべてです。
「感謝すべき」ではありません。
もし感謝の念が湧いてきたのなら、それさえも与えられたものなのです。
その前提に立ったとき、わたしたちが「しなければならないこと」は何も残らなくなります。必要なことは、必要なそのときに、自然と与えられるからです。
すべては、大いなる流れの中に
-なぜこんな苦難が与えられているのか理解できない
-努力や頑張りをしなければ、堕落してしまうのではないか
理解できるのは「今」ではないのかもしれません。
努力や頑張りでさえも、必要であれば、そのときに与えられます。
わたしたち人間は頭で理解し、わかろう、わかろうとします。
しかし「真理-ありのまま」は、言葉に書き換え、頭で理解しようとすると、どうしても本質から離れて行ってしまいます。
言葉も理解も、人間側に属するものだからです。
すべては、大いなる存在、流れのなかに在ります。
御心のままに、導かれるままに。
『生かされている』という視点
その流れに身を委ねたとき、わたしたちは「生きている」のではなく
『生かされている』という視点が生まれます。
それでも、わたしたち人間は悩み、苦しんでしまう。
それでよいのです。
その苦しみさえも、与えられています。
無駄なものは、なにひとつとしてありません。
せめて今日の一日くらいは、すべてを手放し
気持ちを楽にして過ごしてもよいのではないでしょうか
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