『諦める』とは、「明らかにする」こと
「諦める」という言葉。
仏教で「諦」は、サンスクリット語「Satya-真理」を訳した語で、「諦める」とは【真理を明らかに見る】という行為でした。
現代に於いては、断念、ギブアップすること、のような結末の感情だけがフォーカスされ、ネガティブな意味合いを持つことが多いのではないでしょうか。
本来、「諦める」という言葉は
-よく観て
-道理を知り
-執着を手放す
というプロセスを意味したものだったのです。
わたしたちは日常に於いて
・ありのままの現実を直視できず
・「こんなはずではない」と抵抗し
・改善や解決策を探すことに奔走します
-パートナーが家事育児を手伝ってくれない
-子供が学校へ登校してくれない
-会社からの評価が不当で、不満がある
多くの「こうあるべきではない」に対して葛藤し、不安を抱え、何とかしようともがき苦しみます。
然し、パートナーも、子供も、外の世界も「そうなる必要があって、現象として立ち現れています」。この点は、ただ言葉で説明されてもすっきりしないかもしれません。それは、わたしたちの思考ではわかることのできない領域だからです。
今日の天気は雨だというとき「こうあるべきではない」と雲を追い払おうと努力するひとはいません。極端な例ではありますが、パートナーや子供も同じです。彼らは“現象”であり、その理由をわたしたち人間の頭でどれだけこねくり回して考えても、わかる、理解することは到底できないのです。
わたしたち人間は、思考や科学の力を以て、この世界を支配、コントロールできる、と思い込んでいるところがあり、それは苦しみを生みます。
わたしたちの「自力」の限界を悟り、大いなる存在にゆだねること。そのプロセスに『諦める』ことで「明らかにされること」があります。
ここでお伝えしたいのは、具体的な解決策ではなく
-自力の限界を悟り:諦める
-大いなる存在に導かれていると知る:明らかになる
-ゆだねる
という道がある、ということです。
これは、何もしない、努力しない、などの意味ではありません。
ゆだねることを通して、することも、努力でさえも、自然と与えられるのです。
自分が、自分で、と頭のなかで煩悶、もがき苦しまなくても、必要なとき、必要な物事は与えられます。意志も、感情もわいてきます。
御心のまま
導かれるまま
究極、あなたがしなくてはならないことなど、何一つとしてないのです


