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いのちの継ぎ手

3月29日
読了時間: 2分

更新日:7月23日

コップに水をくべ

そこにアボカドの種を据えておくと

しばらくして種が芽を出し始めます


その芽は次第に大きくなり

鮮やかな緑を呈し、立派な葉を開きます


一方で、土の表面近くにある

アボカドの種は、次第にしわがれ

しょぼくれて小さくなっていき

どんどんと立派に育っていく葉を

下から眺めているようにも見えます


わたしはそこに、

生命として、人間としての親子

いのちのバトンを感じざるを得ません


親子のかたちは様々なので

いちがいにこれ、と言うことはできません


でもときに、

自分が何のために生きるのかと

思いを巡らすとき

そのアボカドの種を思い出すことがあります


幸いにして、ゆたかな愛情を

得られたひとであっても

愛情にめぐまれなかったひとであっても

誰もが精一杯を生きています


誰も彼も、好きこのんで

自ら選んで、愛情不足になった訳ではなく

愛にめぐまれた人間に生まれることを

選択できたのであれば

それを選んだのではないでしょうか


どのような形であっても

わたしたちは精一杯に生きており

わが子であっても

わが子ではなくとも、次なる世代の子らへと

その精一杯を引き継ぎ、つぎのいのちへと

なにかを繋いでいます


わたしはときに、

自分は単なるバトン、継ぎ手であり

そこに「わたし」は無いものと

感じることがあります


わたしの意志や思惑など

関係も及ばない大きな意志が

この世界には流れており

わたしはただそこに流されている

そのように感じます


それは、他力のこころであり

この世界、宇宙のなにか大きな存在の

御心のままに、流れ、流さるること


わたしたちが「選んできた」と

信じてきたことも、実は大いなる意志により

「選ばされてきた」のかもしれません


植物の種は

土に入り、水を得ると

芽を出し、美しい花を咲かせます


それはあたりまえのようでいて

とてつもなく、人智を超えた現象であり

その設計図があのちいさな

タネに含まれていることは

科学ではけして成し得ないことと思います


わたしたちは

この宇宙の大いなる意志により

生かされている


そこに立ったとき、ほんとのところは

将来を不安に感じてあれこれ思案したり

だれかを思いのとおりにしようとしたり


そうしたことは、いっさい要らず

ただ流れに身をゆだね、流さるるまま

ありのままに生きて、良いのだと思うのです

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