ありのまま -自然法爾-
更新日:7月23日
「ありのまま」
この言葉をテーマに、カウンセラーの活動を始めました。
ありふれた言葉ではありますが、いま思うと、私自身が苦しみを意識し始めた
10代のころから、人生の中心となる言葉であったと思います。
ありのまま、とはどのようなものでしょうか。
さまざまな本やメディアで謳われる言葉ですが、
どんなに意識しても、頑張っても、ありのままでいることができず、
苦しみが増してしまう方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。
“よし、ありのままでいるぞ!”
イメージはし易いですが、力んでしまった時点で、
ありのままでいることはできません。
“これがありのままの私。あれが好きで、これは嫌いで・・こういう人なんだ”
もちろん、多くの方が自分のことを知っていて、
自分のことについて説明ができます。
でも、その内容は、本当に「ありのままのあなた」でしょうか。
くどい謎解きのようではありますが、大切なことなのです。
私たちは知らない間に、それはこの世界に生まれ落ちた瞬間から、
両親や社会-学校教育や本、メディア、インターネット-による
膨大な情報 (知識、文化的背景、価値観 ..)を蓄積していきます。
それらを含め、私たちは「わたし」を形作っていきます。
同時に社会は、さまざまな価値観を要求してきます。
・父/母親はこうであるべき
・男/女性は..しなくてはならない
・学校(会社)では勉強(仕事)に励まなくてはならない
・努力して、頑張らなければいけない
無意識にコマーシャルを見ているなかでも、そうした擦りこみは多く
“幸せそうな家族が、立派な家と車を持ち、仕事に楽しそうに励み・・”
さまざまなイメージ像、擦りこみが氾濫しています。
では、もういちど伺うのですが
「ありのままのあなた」とはどのような存在でしょうか。
いちど、外からの要求、擦りこみを一切、横に置いて観てください。
・(たくましくありたいけど) 私は臆病で弱いんだ
・(優秀な自分と信じてきたけど) 私には何の取り柄もない
・(*が好きと信じてきたけど) 本当は嫌いだった
自身のこころを少しずつ聴き、解きほどいていくと
「実は・・」といった言葉が出てくるのではないでしょうか。
日常で分厚い鎧をかぶり、必死に、立派に頑張ってきた人ほど
そうした言葉はこころの奥深くに埋もれてしまっています。
この「実は・・」という正直で、素直なこころの言葉。
それらひとつひとつを拾い上げ、大事に見つめてあげる。
この作業をしていくことで、少しずつ何かが変わり始めます。
このとき“変えようとする”のではなく、ただ見つめてあげるだけで大丈夫です。
仏教の言葉に「自然法爾」というものがあります。
“物事は、すべて本来あるがままに、自然(じねん)に成り立っていく”
それは樹の在りようや、川の流れと同じ。
「こうあるべき」も、「こうありたい」もなく、ただ在る。
どんなあなたでもいいんです。
何ができて、できなくても。何が好きでも、嫌いでも。
どんな自分であっても、何の取り柄もなくっても。
そんな何もない、空っぽのわたしで生きていく。
そのありのまま、を見つめていくとき、何かが変わり始めます。
苦しみから逃れるため、幸福を得るため、ではなく。
何もない、ありのままを見つめ続けるその先に
ほのかに温かく、そして懐かしいような何かに出会います。
わたしはそれが、本当の幸せだと思うのです。


