子どもの不登校と、わたしのこころ
子どもが学校へ行けないとき、わたしたちは
自分を、そして子どもを責めてしまうときがあります。
この文章を読んで、あなたのこころが
すこしでも軽くなってもらえたら、わたしは幸せです。
これまでわたしは、「不登校」という言葉を
できるだけ使いたくないと感じてきました。
それはどこか
-社会的な問題
-重たいもの
-(無意識に) 子供たちが責められる構図
そうしたものを感じ取ってしまうためです。
「不登校=良くないこと→改善しなくてはならない」
という形では、捉えたくないと感じています。
わたしの息子は長い間、学校へ行けていません。
その子、その子の特性もあると思いますが
ほかの兄弟も学校へ足が向かなくなってしまいました。
彼らが安心できる家庭を築けてきたかと問われたとき
わたしは胸を張って、そうだと言うことはできません。
(誤解なさらないでほしいのですが、家庭は安心の土台にはなり得ますが
不登校がその原因だと意図するものではありません)
わたしたちは、どうしても表面的な事象に囚われ
判断し、外の世界を変えようとしてしまいます。
-学校に行けない子供たち
-学校で暴れてしまう子供たち
彼らは現象はちがえど、こころのなかは同じではないかと思うのです。
「誰か助けて」
「わたしを見て」
「不安で仕方がない」
そのような叫びが、聴こえてくるように感じます。
彼らのなかには、安全基地なるこころの土台が
まだ築かれていないのかもしれません。
わたしたちも、これまで精一杯を生きてきました。
意図せずして、多くの重たいものを抱えざるを得ませんでした。
「誰か助けて」
「わたしを見て」
「不安で仕方がない」
この叫びは、じつはわたしたち自身の叫びでもあります。
わたしたちは皆、自身や子供の幸せを願っていきたはずです。
だからこそ、自分を、そして子供を傷つけてしまった
傷つけざるを得なかった過去に、わたしたちは深く傷つきます。
過去や現状をむりやり肯定するとか、逃避の意味ではありません。
どれだけ頑張っても、このようにしか生きてこられなかった
どれだけ願っても、この場所にしかたどり着けなかった
その自分自身を、そして自然の流れを
まずはただ、そのままに受け取ってほしいのです
そうすると、子どもたちのこころの叫びを、すこしずつであっても
受け止めてあげられる「わたし」に気が付くかもしれません
「今日はおやすみする?」
「ここにいるよ」
「話したくなったら、いつでも言ってね」
そうした言葉をかけてほしいのは、子どもたちであり
そして、わたしたち自身であったことに、ふと気付くことがあります。
あなたという存在が大切にされ、癒されたとき
何かがすこしずつ溶け、ゆっくりとほどけていき、あなた自身が
そして結果として、子どもたちが変わることがあります。
-勉強の遅れはどうしたらいいか
-社会的なコミュニケーション力は大丈夫か
-家でゲームばかりで心配
現実的な心配事は、たしかにあります。
然し、わたしたちのこころが癒されたとき
それは子どもたちのこころの土台となり、彼らは力強く立ち上がります。
わたしたちは、わたしたち自身が愛されないなかで
誰かを、真に愛することはできません。
こころの変容と、それによる外の世界の変化には
ほんとうに驚かされるものがあります。
あなたの歩みは、すこしずつで大丈夫です。
その歩みがあなたを癒し、子どもたちの未来をそっと照らします。
きっと、だいじょうぶです。


